金津山の黄金(かなつやまのこがね)
むかし、打出をおさめていた阿保親王(あぼしんのう)さまは、大そうすぐれた方であった。 つねに村人のことを考え、ききんのときなど心をいため、村人のくらしの心配をされたという。 村人もまた、親王さまを深く、うやもうておった。それで、なくなられてからも、親王寺(しんのうじ)を建て、たましいをおまつりした。 その親王寺の南にある打出(うちで)の沖を船が通るとき、船はかならず、帆を下げて通ったという。 このことを知らない船が、帆を下げずに通ると、たちまち、海なりがし、海は大あれにあれ、そして、その船はしずんでしまうとまでいわれた。 そんな親王さまが、村の人たちに、残されたものがある。 朝日さす、入り日 かがやくこの下に こがね千枚、かわら万枚 この歌とともに、金、ぎん、財宝を、どっさりと、金津山の塚にうめられたという。 村人たちは、おどろきながらも、大よろこびをした。 自分たちが、くらしに困ったとき、この金津山の黄金(こがね)を使ってもよいと、親王さまはいうてくださっている。 これで、ききんの年も心配がない。津波で家を流されても、もうだいじょうぶやと、ありがたがった。 この歌と塚の宝は、長い間打出の村人たちの心に灯(ひ)をつもしつづけた。 ききんの年、食べるものに困っても、津波で家が流されても、だれも、金津山の黄金をほりおこそうとか、津波で、家のかわらがなくなっても、金津山のかわらを使いたいという者はいなかった。 「いやいや、親王さまは、もっとつらい時に、使うようにと、残された。もったいないことをしてはならん。」 と、おたがいにいましめあい、はげましあいをし、苦しいときをのりこえてきた。 村人たちは、この歌や、金津山の塚を長いあいだ、大切にしてきた。 塚をほり返したいと思う者も、いたであろうが、だれもほりかえした者はいない。 たたりをおそれて、ほりかしたりしなかったかもしれないが、親王さまのお心にそむかなかったのであろう。 むかしは、金津山の塚は、街道の近くにあって、通る人の目にふれ、おまいりの人も多く、名所になっていた。
今、金津山は、民家にかこまれている。小高い塚は、打出の名所になっている。 そこは、阪神打出駅の少し北で「金津山古墳」とよばれ、大切に守られ、むかしの打出の面影を伝えている。 「金津山のまいぞう金、どないなっているのやろ。」 だれもが、思うことやろうが。 ほらないほうがええにきまっている。 親王さまは、今も昔も打出の人たちに、夢をもたらせてくださっているのやからな。 (校正未了) |